竹 内 式 部 の 墓  (その他)


二葉公園 竹内式部銅像
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 なじらメモ 

 子供の頃から、二葉中学校グラウンド向かいに
何だか難しい顔をした人銅像があったのを知っていたのだけれど、
あまり気にしていなかったのですよね〜。

今頃ですが、興味を持ったもんで、チョイト調べてみたのでした。 
このお方、
竹内式部さんは正徳2年(1712)新潟市本町通九番町に生まれた
新潟の
尊王思想家で、江戸時代に尊王思想を学問的に展開された方なのだそうです。
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西堀通六番町本覚寺、竹内家菩提寺
亀の台座の亀趺像が特徴的。
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本町通九番町にある出生地の碑
昭和5年建立
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なじらねっと

参考資料 「新潟市史、新潟市史読本」より
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ここで一つ、尊王思想って何ですかぁ?っていう私みたいな人の為に、、、

広辞苑によると尊王思想とは

尊王 = 天皇を尊ぶ亊

尊王論 = 天皇の絶対的権威を認め皇室を尊崇すべしとする論。

近世に至り儒教の王道思想に基づき朝幕の名分を説く儒教者の尊皇論と、
儒教を排斥し復古神道を説く国学者の尊皇論とに大別される。
しかし両者とも本質的には幕府政治を否定するものでなく、
また、明治以後の絶対主義的天皇制イデオロギーの基礎となった。

 尊王譲位 = 天皇の権威の絶対化と封建的排外主義とを結合した政治思想。

幕末、危機に瀕した幕藩体制の再建化のために、特に水戸学によって鼓吹され、
やがて王政復古、倒幕の思想とも結びつくにいたった。

岩波書店 野村 出編 広辞苑より

という事だそうです。う〜んなるほどねぇ〜
 



竹内式部さんは京都の公卿徳大寺家に仕えながら
垂加流神道といわれる儒教の神道を学び、
日本書紀等の講義を通して天皇中心の思想を訴えていましたが、
垂加神道流に反対する朝廷の保守派の弾圧を受ける中、
その思想が故、幕府により宝暦5年、8年、明和44年と
三回の取り調べを受ける亊となり、
その結果八丈島への流罪が申し渡されました。

明和4年(1767)12月5日、流罪途中の三宅島にて
病死されてしまいましたが、その思想は
100年以上後の明治維新の尊皇思想運動の源に
なったと言われているそうなのでした。

 維新後、世の中が一変すると式部さんの評価も変わるもので、
明治政府から明治24年12月、正四位を贈られ、
京都市上京区寺町十全寺墓地に記念碑が建てられると、
明治42年には三宅島の大林寺にはお墓が造られたそうです。

 生まれ故郷でもある新潟市内では、

明治35年、本町通十四番町にある
入船地蔵尊境内に「維新柱石贈正四位竹内式部君碑」が建てられたのを初め、


本町十四番町入船地蔵尊境内の碑
明治35年建立


大正5年には白山神社に「贈正四位竹内式部君碑」の顕彰碑が建てられ、


白山公園内の碑
大正5年(1916)建立


昭和8年9月には四ツ屋町の共同墓地脇に造られた「贈正四位竹内式部先生之墓」に
三宅島にある墓より得た遺骨の分骨を納める納骨式が行なわれたそうです。


四ツ屋町、日和山共同墓地の一角にあるお墓
 昭和8年納骨


 その後、昭和15年頃には新潟市が竹内式部を祀る
竹内神社を造る予定もあったそうですが、
護国神社建設と重なり、竹内神社建立は延期され、
そのまま中止となってしまったそうです。


二葉公園 竹内式部銅像

二葉公園の銅座像は
昭和17年、新潟市二葉国民学校(現二葉中学校)の
創立二十周年記念事業として造られたもので、
台座は北蒲原出湯産の
花崗岩、銅像の制作者は武石弘三郎という
南蒲原郡中之島出身の彫刻家の方なんだそうです。

 昭和17年といえば戦時中、この銅像にも
供出命令が下ったが、
昭和19年、当時の二葉学校長の機転により銅像の裏に埋められ、
終戦の年、
昭和20年11月に再び掘り出されて
台座の上に据えられたものなんだそうです。
 う〜む歴史ありだね。

 普段何気なく見ていた銅像ですが、興味を持つと変るもので、
色々勉強になりました。「広辞苑」引いたの久し振りだなぁ〜 ははは

資料参照 新潟市史、新潟市史読本
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Mapion(地図)→
竹内家菩提寺 本覚寺
入船地蔵尊境内の碑
白山公園内顕彰碑
本町通九番町 出生地の碑
竹内式部の墓
二葉公園 竹内式部銅像
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竹 内 式 部
関 連 リ ン ク
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本 覚 寺 新潟市のランドマークタワー?
NEXT21のすぐ隣のお寺です。
春は桜の名所のお寺。
安政期の勤王志士
竹内式部の菩提寺でもあるのでした。
白山神社 白山公園
白山公園は昔ん、新潟遊園と呼ばれており
楠本県令によって明治6年開園となった
日本で最初の公園の一つでもあるそうだ。
もちろん新潟で最初に造られた公園でもある。
ちなみに白山公園に猿が飼われたのは
昭和四年からだそうだ。ウッキー
浄信院
(入船地蔵尊)
境内地蔵堂にはおびただしい数の
地蔵様が安置されています。
十四番町の遊女(娼妓)さん達の
祈りの場だったのでしょうか。



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