なじらね 新潟下町 おもっしぇところ


下町をゆく
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本町十四番町のみち
(旧新潟遊郭)



現在の本町十四番町
一番奥に入船地蔵尊が見えます。

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しもまち、本町十四番町と聞いても、30代の私としては

いまいちピンと来ないのですけれど、

以前は全国で五本の指に入るほど有名だった

新潟遊廓」があった場所なんだそうです。
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 なじらメモ 

附船町行きのバスに乗り、本町14番町でバスを降り、十字路を左に曲がると、

一番奥に
入船地蔵尊がある門前街があります。ゆるい坂を登りながらお寺へ向かうと、

道すがら
旅館が沢山あるのに気付きますが、当時を偲ばせるものは入船地蔵尊の門前に残る

水田廊の建物だけとなってしまいました。 色褪せて剥げかかっている朱色の格子を見ていると、

想像の世界ですが、しばし賑わっていた当時の14番町の雰囲気に浸れる様な気がするのでした。
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新潟交通バス停「本町十四番町」
右に見える煙突は、銭湯「門の湯」の物
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本町十四番町のつきあたりに、
入船地蔵尊はあるのでした。
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入船地蔵尊の手前、
当時を偲ばせる建物「水田楼」

朱色の格子が残っていましたが、
平成12年12月解体に。

なじらねっと

参考資料 「新潟市史」より
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「十四番町に遊廓が出来るまで」

 新潟の
娼家元和年間(1616)以前と言われるそうですが、寛永年間には古町神明町
(現 古町通四番町)周辺に五、六軒の遊女宿が一団をなす
公許の遊廓(中道と呼ばれていた)があったそうです。

 その後、公許の遊廓に対して、宝暦年間から上寺町や下寺町
(現在の西堀界隈でダッポン小路ともいわれたそうだ)にも娼家が出来はじめ、
坂内小路や古町二、三の町周辺に
私娼の一群(八百八後家と称される)が現れたりと、
港町新潟の発展と共に女の街として栄え、全国的に知られるようになったそうです。

 天保年間、
幕府の直轄地となった新潟の川村奉行は女の街として栄える港町新潟の
風紀を改める為、
古町西堀娼家泊茶屋と名付け、私娼茶汲女と呼び、
熊谷小路毘沙門小路の娼家を船宿と名付け、そこに働く遊女を洗濯女と呼ばせ、
他地域への広がりを規制したそうです。

 その後、
明治になり新潟が開港されると政府は風紀を改める為にと
遊女界を一括して
移転しょうとしたが反対の声が多く実現は出来なかった様です。
しかし明治年間の数々の
大火の度に少しずつ遊女街の免許地域は排除されてゆき、
明治21年23年26年の大火で代表的な遊廓群が焼失したのを機会に、
営業許可地を当時新潟島の北の外れだった
本町十四番町に限定して、
明治三十一年公娼としての「新潟遊廓」を開設させたのだそうです。
その後、許可地は
常磐町(西受地町)、寄付町四ツ屋町一丁目
東堀十三番町横七番町二丁目と広がったそうですが、
秣川岸月町花町、等も私娼(公娼ではない)街として知られていたそうです。

 新潟遊廓(
本町十四番町常磐町が二本柱だったらしい)は大正期、
全国で五本の指に数えられるくらい有名になったそうですが、
昭和に入り次第に寂れ、戦後、昭和三十一年に成立した売春防止法を受け、
昭和三十三年の公娼廃止を待たずに長い歴史を持つ新潟遊廓の各業者は
自主廃業したという事だそうです。

「十四番町に遊廓が出来るまで」 おわり。


入船地蔵尊境内より眺める十四番町の街並み
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 あとがきみたいなもの 

 昭和の初めにはもう、新潟の情緒と言えば
堀と柳と新潟美人」と挙げられていたそうです。
古町花街の三味線や舞いの腕を見せる芸妓さんはその代表とされていますが、
北廓(新潟遊廓)の娼妓さん(芸妓さんもいらしたらしい)、
沼垂花街芸妓さんの存在も
港とともに発展してきた
柳都新潟の文化の一つと言えるのかもしれませんね。

 今回、新潟の遊廓についていろいろ調べているうちに感じた事は、
成程、新潟は
港町故に、女の街でもあったわけで
新潟には杉の木と男の子が育たない」と言われるのも、
ここから来ているのかな?と思ったりしてみたのでした。
う〜む歴史って面白いのだ。

新潟に
餅屋さんやお菓子屋さんが多いのも、花柳界への出入りが多かった
当時の名残なのかもしれませんね。
(う〜ん、これも私の推測なんですが、、、)
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Mapion(地図)→

本町十四番町

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